2011年08月01日
地震と私
小さい地震しか経験したことの無い京都出身の私にとって「地震」というものは24年間まったくの遠い存在でした。しかし33年前社会人になった次の年。1978年6月12日午後5時14分。「宮城県沖地震」に遭いました。震度5。当時はこの震度5が最高震度でしたが、それでもびっくりするほどひどくまた永く揺れました。それは私の人生初の驚愕体験で「恐怖」を通り越して何がどうなっているのか理解出来ず、頭の中が真っ白になってしまったのを記憶しております。その時の地震のマグニチュードが7.4と言われておりますが、今回の東日本大震災のマグニチュードは9.0。地震学者に言わせるとそのエネルギーの大きさは宮城県沖地震の15~20倍だそうです。想像を絶するとはこのことで、もしも自分や家族、孫が・・・と思うとぞっとします。2008年6月14日の大地震に続きまた今回の巨大地震、宮城県はこの30数年ほどの間に3度も大地震にみまわれてしまいました。
私も他人事のようにこのことを書いておりますが、実は私の妻は宮城県東松島市の野蒜海岸近くの出身で、今回の「津波」で生まれ育った家が土台だけ残して流されたそうです。それと同時に別の所に住んでいた妻のお姉さんとそこのお嫁さんが「津波」の犠牲になったそうです。自然災害とはいうものの、なんともやるせない気持ちでいっぱいです。テレビで見ているとあまり実感として伝わって来ませんが、6月の半ばに帰省した妻は「とっても酷い状況で、・・・」と一言言うなり涙ぐんでしまいその後の言葉が続きませんでした。
私の第二の故郷とは言いませんが、宮城県は私の人生に取ってもいろいろな意味でお世話になったところです。そして、またいい思い出の多い所です。ですから今回も是非宮城の人々には頑張っていただき、復興・復旧をしていただきたいと願っております。いま私は願うだけでなにも出来ませんが、ぜひ宮城県の人たちにはこの震災から立ち直っていただき、もう一度以前のような綺麗な宮城県にしてほしいと願っております。塩釜・気仙沼・石巻・名取・岩沼・青空市場・柴田・角田・白石・・・私が担当した町の人々にも頑張っていただき、また元の街並みに戻していただきたいと思います。遠くから願っております。
武山さん、横山さん頑張って下さい。心から祈っております。
ではまた、よろしくお願いします。
(文責;大塩雅義)
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2011年02月07日
宮崎旅行:その2
午前7時ホテルの部屋。眼前に広がる景色は、強い日差し、フェニックス、そして滔々と流れる大きな川。本当に「南国の朝」という感じがしました。朝食はバイキング方式で和食・洋食・中華と豊富に揃えてあり、いつもはパンと紅茶の私ですが、流石にこの日の朝は自然とおかゆと梅干しに手が行きました。朝食後すぐに部屋に戻って準備をし、チェックアウトを済ませて一同ロビーに集合しました。しばし星野ジャパンの寄せ書きに見入っていると「迎えの車が未だ来てない」ということでだったので、皆で揃ってロビーで「お茶」をしました。椅子に腰掛けて一人一人の顔を見渡すとやはりよる年並みには勝てず少々お疲れ気味の様子でした。でもいざ迎えの車が目にはいるといよいよという気がしてきて、もうホテルの玄関を出る頃には気合いが入りまくりで皆々テンションが上がりっぱなしでした。チャーターしたマイクロバスと御曹司の車に分乗していざ出発。途中、コンビニで御曹司に言われるままに各自大量に「飲み物」買い込みました。何故かと聞くと彼曰く「フェニックスは茶店の数が少なくて、尚かつ値段が高い」とのことでした。色々と気を使ってくれるので「こいつ、学校行ってるときこんな感じの奴やったかな?」と思いつつ感謝・感謝。
シーガイヤ・リゾートの高層ホテルの横を通り抜け、ホテルから20分ほどでフェニックス・カントリーのクラブハウスの正面玄関に着きました。入り口は普通のゴルフ場と変わりはなかったのですが、一歩ロビーの中に入るとやはり特別な「雰囲気」が漂っていました。壁・階段・天井などは木が基調で重々しく、また大きなシャンデリアは柔らかい自然色の光で煌々と輝いていて、ソフトで落ち着いた感じのクラブハウスでした。
しかしここでも「チャイナ・マネー」の進出が激しく、半数ぐらいは中国からのツアー客のようでした。その分ゴルフ音痴の私としては服装やプレーにさほど気を使う必要もなく、フェニックス・カントリーを十分満喫する事が出来てよかったです。キャディーさんは皆やさしく美人で猛暑のなかでもテキパキと指示を出してくれ、またコース毎にダンロップ・フェニックス・トーナメントの時の有名選手の話などを聞かせてくれて、大層興味深くラウンドをさせてくれました。スタートが遅かったので、帰りの飛行機の時間が気になっていましたが、さほど時間が掛からず割と余裕のプレーできたのはやはりキャディーさんのお陰だったのでしょう。ここでもキャディーさんに感謝・感謝。終わってからお風呂に入り、プレー代を支払ってまたびっくり。御曹司の口利きで私はクレジットカードを使わずに「現金」で支払えるほどの安さでした。にんまり・にこにこ、大満足でフェニックス・カントリークラブを後にしました。30分ほどで空港に着くと御曹司曰く「晩御飯は家でたべるわ。ほなまた元気で。ありがとう」ということで別れました。飛行機の搭乗まで1時間ほど時間があったので、空港で最後の宮崎名物を皆それぞれ堪能しました。
早朝から深夜までの弾丸ツアーで、あっという間の二日間でしたがすばらしい旅行でした。この次は、やれ「台湾」だとか やれ「北海道」だとかささやかれていますが、誘われればまた参加したいと思っています。しかし、台湾も北海道も友達おらへんのになー!?
(文責;大塩雅義)
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2010年10月04日
行ってきました、宮崎へ。
お袋の調子も思いのほかによくなって、この9月4・5日宮崎へゴルフに行ってきました。なぜ宮崎かといいますと、学生時代私は「テニス同好会」に所属していたのですがその仲間内の一人に「宮崎の御曹司」がいたからです。ここ3年続く一連の名門コース訪問は、一昨年の蔵王カントリーに始まり、去年の黒潮カントリー、そして今年の宮崎カントリー・フェニックスカントリーと続いています。まあ乗りがいいというか、暇というか、「ゴルフに行くぞ」というといつも10人前後が参加します。ゴルフ以外にも行きたそうな奴が他に20人ほどいますが!!?
今回私は生まれて初めて二日連荘でゴルフをしました。日頃の行いがいいせいか2日とも快晴で記録的な猛暑となり、久しぶりに「汗だく」になりました。ホテルに着いてすぐ、ウエアーが足りなくなると思って、晩御飯前にホテルで上着だけ洗濯をしました。これも学生時代の「合宿」以来の事で、懐かしくて一人部屋でニヤニヤしながら机や椅子に洗濯物を干しました。
初日のゴルフ場は「宮崎カントリークラブ」で宮崎空港のすぐ隣にある名門コースでした。ここはラフが柔らかくて微妙に長く、またグリーンが高麗芝だったのでパットも決まらず、下手な私には嫌になるほど難しいコースでした。しかし食事の方は大満足で、「さば寿司」・「チャンポン麺」・「あじのマリネ」・「しらすの和え物」などは大変美味しかったです。
ホテルは「宮崎観光ホテル」で、あの「星野ジャパン」がオリンピックに向けて合宿したところで久々の高級ホテルでのお泊まりでした。
夜ご飯は当然というべきか当たり前というべきか「宮崎牛」の焼き肉フルコースで、東国原知事御用達の「みょうが屋」さんと言うお店でした。おさしみ・付け出しにはじまり、ハラミ・ロース・カルビ、また見たこともない様な部位のお肉が山ほど出てきました。2時間ほど11人で飲んで、食って最後には食べきれないほどの「チャーハン」が出でそれで一人当たり6,900円という超リーズナブルなパーティーでした。それから時間がまだ早かったので「呑み街」へと出て行きました。そこはその御曹司の知り合いのスナックで土曜日にも拘らず「貸切どんちゃん騒ぎ」をして皆で14,500円を払って早々に引き上げました。明日の朝が早いので。
2日目のフェニックスカントリークラブの話はまた次回で!!ごきげんよう。
(文責;大塩雅義)
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2010年06月28日
9月の「宮崎ゴルフ旅行」て行ける?の巻
一昨年は11名で「仙台ゴルフ旅行」。昼の塩釜・生マグロすしと夜の牛タンフルコース。そして翌日の蔵王カントリークラブでの1ラウンド。昨年は25名で「土佐同窓会旅行」。お昼の渦潮見学・讃岐うどんと夜のかつおフルコース。そして翌日の黒潮カントリークラブでの1ラウンド(ゴルフ以外の人は、土佐の朝市・市内観光)と立て続けに豪遊しております。まさに満喫、満足、満腹と三拍子揃った旅行でした。
そんでもって「二度あることは三度ある」ではありませんが、今年は調子に乗ってあの憧れの宮崎フェニックスで、ということに決まりました。と言うのも去年の土佐旅行の時、下心満々でわざわざ「宮崎の御曹司」(勿論同窓生ですが)を呼びました。そして桂浜の駐車場で其奴に会うなり、「来年は宮崎で・・・?」と大声を張り上げました。流石、昭和28年生まれ。乗りがいいのか食いつきがいいのか分かりませんが、其奴は二つ返事で「当たって見とくは」とニコニコ顔。なにか其奴も私も「しめしめ予定通り」という雰囲気でした。
この様に書くと私がとてもゴルフが好きで毎週のようにコースをまわっている様に聞こえますが、本当は年に2~3度しかゴルフをしません。まあ若い頃は、千葉や茨城で毎週のようにやっておりましたが。その反動という訳でもありませんが、ここ10年ほど前からはこのペースになっております。スコアーも100をなかなか切れません。
しかしいまの私の一番の心配事は今月90歳になった「母親」のことです。まあ毎年のことですが6月になると調子が悪くなります。今年は特にひどくここ2週間ほど微熱が続いています。元気は元気なんですが、どうも寄る年波には勝てないようで背中がとても寂しそうです。なんとか9月までには少し回復してもらわないと思っています。このままではとても宮崎には行けません。言いだしっぺの私が行かないと「宮崎の御曹司」に何を言われるかわかりません。祈る毎日です。仏様どうぞよろしくお願いします。
ではまた。
(文責;大塩雅義)
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2010年03月01日
私的「食いしん坊」万歳!!
今月の まあ今月に限らず、ここんところ毎週のように私は「食いしん坊・万歳」の連続です。
(1)正月元旦、「大和学園」〔京都調理師専門学校の方〕のおせち料理。
(2)正月中旬、神戸にいる私の実姉の紹介で賀茂の東良さんの「すぐき」を手に入れる。これがまた絶品で白いご飯とこの「すぐき」だけでお茶碗3杯は食べられます。本体を薄く切り、葉っぱは細切れにしてお茶漬けにするともったいないのでそのままで食べます。すばらしい。
(3)正月下旬、京都リーガロイヤルホテル地下の懐石フランス料理「グルマン橘」でビーフシチュウ掛けオムライス。因みに隣の「吉兆」さんは1月31日で閉店されたようです。40周年記念でランチは4000円でコースあり。
(4)2月11日、墓参りの帰りに千本今出川の「天喜」さんへ。久々の「てんぷら」でした。個室を取ると高い。しかし普通のテーブル席ならお手ごろです。
(5)2月13日昼、遅いお昼ご飯にぎおん「権兵衛」さんへ。私は支店には何べんかは行ったのですがこの「本店」には初めてでうどんがうまかったです。午後1時ごろ行ったのですがお店の前に10人ぐらい並んでおられてびっくりしました。お袋は「きつねうどん」、姉貴は「かまあげうどん」、私は「なべやきうどん」とこの店の3大美味うどんを注文しました。ここでもちょっとしたサプライズがありました。それは私のすぐ後にあの女優の「杉本あや」さんがおられたそうです。そんでもって私の背中と彼女の背中がなんとセーター越しに触れてしまいました。
(6)その日の晩、錦小路の室町と新町の間にある中華料理の「膳所漢・ぽっちり」でお食事会。ふかひれの姿煮が名物で味もロケーションも最高でした。ここでも私的にお初がありました。それは10年物の「紹興酒」に出会えたことです。こんなうまい「紹興酒」は生まれて初めてで4本もお替りをしてしまいました。
(7)今週は、「かに」です。食べきれないほどの「間人がに」が出るそうです。タラバガニやハナサキガニではありません。正真正銘の「たいざがに」です。
糖尿病に気をつけます。
(文責;大塩雅義)
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2009年12月07日
明るい話題?・・・
今年も12月に入ってしまいました。努めて「明るい話題」を探しているのですが見つけにくいと言うのが実感です。昨日、日銀が取り敢えず3ヶ月位の「量的緩和」政策を打ち出しました。がしかしその自信のなさを表す日銀総裁の顔がテレビの画面から見て取れました。円高・株価低迷・デフレ等々、解決の手だてが財務大臣や金融担当大臣からはっきりと出てきません。「ゼロ金利」という最後の切り札を切ってからほぼ10年経ちました。日本経済は立ち直ったかに見えましたがやはりまだまだ復活の道は険しく今だ先行き不安の状況のようです。残された施策はこの「量的緩和」ですが、どうなるかは判りません。
そんな「難しい」話題はさておき、私の今年1年を振り返ってみますと
1月;長男の嫁さんが切迫早産で入院。慌てて名古屋にお見舞いに行く。
2月;知り合いの方のご長男の結婚式。社員旅行で温泉へ。
3月;37年ぶりの紫野高校「クラス会」。事務所の引っ越し。
4月;初孫の誕生。
5月;大学の同窓会で「土佐」へ1泊旅行。名古屋で孫の「お宮参り」
6月;客先で「大事故」。ここから「調子」が狂う。
7月;スクーターで追突事故に遭う。生まれて初めて「救急車」に乗る。
8月;6月の「大事故」でトラブル。
9月;シルバーウィークに孫が家に来た。
10月;宮城県での義母の葬式。
11月;・・・・
まあ、プラス・マイナスどっこいどっこいと言うところですか?
来年はさらなる「飛躍」へ!!ちゃんちゃん。
(文責;大塩雅義)
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2009年09月28日
サーちゃんがきた!!!の巻
息子は女の子が生まれたら「さつき」と言う名に決めていたそうで、漢字も「颯爽」の「颯」をどうしても使いたかったようです。「颯」に希望の「希」。でも皆は必ずと言っていいほど「5月生まれですか?」と聞いてくるそうです。その度に息子は、はにかみながら、でも嬉しそうに「4月生まれです」と答えているそうです。その「サーちゃん」がついに我が家にやって来ました。
このシルバーウィークを利用して、9月20日から二泊三日の日程で、ついに大塩家の初孫「大塩颯希」が京都デビューしました。チャイルドシートに乗せられて車で名古屋からやって来たのですが、すこぶる元気で機嫌もよく初めて会ったうちのお袋も「この子、しっかりした赤ちゃんやなあー」とびっくりしていました。この前の「お宮参り」の時はまだ赤ちゃん赤ちゃんしていたのに、たった3ヶ月でこんなにしっかり大きく可愛くなるとは想像もしていなくて驚きました。くりくりお目目とぷくぷくほっぺ。腕と太股はもうぱんぱんです。生まれたときは2800グラム少々、しかし今はもう7100グラム強もあるそうです。さすがに長く抱いていると腕が怠くなってきます。写真が見せられないのが残念なほど色白で別嬪さんです。そしてもっとびっくりすることに、まだ生後5ヶ月だというのに仰向けに寝かせると一人で「寝返り」をします。しかも器用に必ず左回りに。でもまだ元の仰向けには自力で戻れませんが。その「寝返り」を一生懸命にしてくれて、なおやっとの思いで顔を上げ、珍しそうにじーと私の顔を見てくれます。・・・「ガン見」。その瞳は正にこの世の物とは思えぬほど綺麗で美しく、真っ黒で潤んでいます。それを見た瞬間、私は「人間の幸せとはこういうことなんや!!」と訳の分からぬ事を心の中で唱えていました。
あっという間の3日間でした。この次会うときにはまたびっくりするほど大きくなっているんやなと思うと、もう居ても立ってもいられません。息子の嫁さんに嫌われるかも知れませんが10月か11月に名古屋に行こうと思う今日この頃です。
ではまたの報告を!!幸せな爺さんより。
(文責;大塩雅義)
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2009年07月13日
ヤッター!!!、初孫が出来た。
3ヶ月前の4月14日、長男に待望の「第一子・長女」が産まれました。遂に私も「おじいちゃん」になりました。その日、長男からの「さっき、生まれた。女の子。2863g」という携帯メールを見たとき、思わずガッツポーズをしてしまいました。情報過多の世の中でご他聞に漏れず私もいろいろといらぬ心配をしていましたが、無事何事もなく、元気に生まれてきてくれました。
早速「じじ・ばば」は、4日後の4月17日 平日にも関わらずeKワゴンで名古屋まで行ってしまいました。出発前、「大丸」で昼飯をとり、そのついでに「お土産」を買っていくということになったのですが、さて、何を持って行っていいのか分からず、爺・婆両方がそれぞれ自分が思いついたものを買ったので、それこそ1度に食べられないほどの「お弁当・さば寿司・お菓子」になってしまいました。
病院に着くと生まれたてだったので「首」も据わっておらず、抱きましたが、おじいちゃんは恐々でした。もじもじとしり込みをしていると、婆からひょっと渡されたので躊躇する暇がなくて思わず抱いた次第です。自分の「子供」を抱いた時と違って、「孫」というのは不思議な感覚のものだな、とそのとき思いました。まあ当然30年もの歳月がたっているのですから、当たり前と言えば当たり前のことなのですがとても不思議な感触を覚えました。
その日からもう大変、顔は緩みっぱなし、デレデレになってしまいました。周りの人に悟られまいと必死に目を吊り上げるのですが、長続きしません。気付くとニヤニヤしています。ああ早く夏休みになって、長男が「サーちゃん」を連れて帰省するのが今から待ち遠しいです。
(文責;大塩雅義)
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2009年04月27日
ついに、手に入れたぞう!!!
先日、大阪の質屋さんで中古の「クレドール」を買いました。これは6年ほど前から探していたもので、本体が18Kの椋、文字盤も金色で黒のエナメルのバンドがとてもおしゃれな品物です。外径の大きさもよし、薄さも軽さも抜群で手首の細い私にぴったりの時計です。この「クレドール」の現在のモデルには文字盤まで金色のものはなく、文字盤の白い奴はお店のショウウインドウに並べてあると高級品ですが、人の腕にされているとさほど高級品には見えません。だから今度手に入れたこの時計は今となってはなかなか得がたい品物だと自分で納得しております。
別に私は腕時計を集めるのを趣味にしているわけではありません。しかしこの「クレドール」を意識しはじめた理由はといいますと6年ほど前に同じセイコーの「ドルチェ」という時計を人から貰ったのがきっかけです。先ほども言いましたが私は男としては手首が細く、「ロレックス」の様なゴロンとした腕時計があまり似合いません。以前見栄を張って安物の「ロレックス」をしていましたが、多分他人にはまがい物にしかみえなかったと思います。そこへひょんなことでこの「ドルチェ」を頂いてからは、私の手にはやはりこういう薄型の時計が一番だと思うようになりました。頂いてから2年ほどで電池切れになり、大丸の時計売り場へ電池交換にいきました。そこで待ち時間の合間に売り場を見ているときに「クレドール」という時計を見つけてしまいました。
以来いつかはワンランク上の「クレドール」を手に入れようと思い続けていました。そしてついに、憧れのそれも金椋のものを手に入れたのです。2009年も調子がいいぞう!!!
ではまた。
(文責;大塩雅義)
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2009年02月16日
仙台旅行その4
牛タン「利久」あおば通り店。藤井君が予約をいれておいてくれたので30人はいるかと思われた席待ちの行列をスルーして店内に入りました。なぜか、ちょっとした優越感。2階の予約席に直行。掘りごたつ式のシンプルな席で藤井君の長男坊も入れて全部で13人、車座に座ることができました。
先ずは飲み物。先ほどの「浦霞」有り、焼酎・ビール・ワイン・それぞれ皆好きな物を注文しました。因みに私は最初の乾杯用に黒ビールと普通のビールのハーフアンドハーフを頼みました。そしていよいよ「牛タン」の注文。最初は20種類位ある牛タンメニューを一通り全部注文し、そのあとよかったものをその都度オーダーしようと決め、乾杯、チェース。実を申しますとこの日私は「二日酔い」でした。ですからこの乾杯のビールがこの日初めてのアルコールでした。だから尚のこと、格別にうまかったです。ガヤガヤと今日の出来事などを話し合っていると、料理が3品ずつほど順次運ばれてきました。仙台に行く前は、たかが牛タンと思っておりましたが、とんでもない、特に「しん」と言う部位は数量限定だけあって、肉質・歯応え・味どれをとっても抜群でした。その他、シチュー、サラダ、アラカルト、グラタン、刺身などなど、どれもこれも皆美味でおなかがパンクするほど食べまくりました。3時間ほどでもうこれ以上食べられないというところまで飲んで食べて、ご馳走様となりました。しかも満足はこれだけでは済まされませんでした。なんとあれだけ飲み食いしたのに精算は驚きの「一人当たり1,800円」。正直なところ近ければ毎週でも来たいと思いました。
明日がゴルフと言うことで皆、おとなしく帰りましたが、私の場合、懐かしくて時間があればいろいろなところへ行きたかったです。生きているうちにもう1度ぐらいは来れるかなと考えながらホテルへ帰って大人しく寝ました。
以上、仙台旅行についての報告を終わります。皆様も、もしよろしければ宮城へ行かれたときには「塩釜」のお寿司と「仙台」の牛タンをご賞味されてはいかがでしょう。ではまた。
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2008年12月08日
仙台旅行その3
「瑞巌寺」は閉館時間が迫っていたこともあったので、半数の者は入場しましたが半数の者は最寄りの「喫茶店」で休憩をとっていました。勿論私はと言いますと後者の「休憩組」でした。二日酔いのせいか、はたまた皆に「気を使っている」せいなのかヤケに疲れていたのを覚えています。30分ほどすると入場組が出てきたので、皆でぞろぞろと仙石線の「松島駅」まで歩いて行きました。言い方が悪いかもしれませんが、都会の人間の感覚では電車というものは遅くても5分位で来ると思っています。しかし仙石線、とくに塩釜駅から以北は20分ほど待たないと電車はやってきません。仙台と塩釜の間では割と頻繁に電車があるのですが、塩釜と石巻間ではぐんと電車の数が減ります。ですから最初駅に着いたときにはホームにいる人の数は大したことがなかったのに、当たり前の話ですが時間が経つにつれてだんだんと増えてきて、電車が来るころには人がホームに溢れていました。それと余談ですがこの仙石線、「冬場」になるとドアーが自動で開かなくなります。〔暖気〕が逃げるからで、降りる人が自分の目の前のドアーを自力で開けて降りるのです。閉まるときは勿論自動ですが。私はこのことは今でも多分戸惑うと思いますし、またいつまで経っても馴染めないものと思っています。
さて「冬場」の話はさて置き、今回は皆疲れていたので「何とか、座りたい」とほとんど全員が思っていたと思います。当然電車が近づくと一番前に立ち、そこは関西人のど根性を発揮して、ドアーが開くと猛ダッシュ。無理やり座り込んで5分と経たない内にすやすやと「船を漕い」でいました。大人気ないの一言。しかし許してやってよ。もう54~55歳なんだから。ね!!!
やっとの思いで仙台駅に帰ってきましたが、ホテルに着くと夕飯までは小一時間ほどあるということで、じゃあー最上階の展望風呂に入ろうということになりました。でも「大浴場」に行ってみると、なんとそこは有料でしかも2,000円という高級風呂でした。もうすこし時間があれば2,000円でも入りたかったのですが、仕方がないので諦めて部屋のベットで横になっていました。
少し鋭気を養って、いざ「牛タン」フィーバーへ!!
以下、次項へ
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2008年10月13日
仙台旅行その2
日本酒の「浦霞」やビールでほろ酔い加減のおっちゃん・おばちゃんたちは寿司屋さんから10分ほど歩いて船着き場に到着しました。と言うのも塩釜から電車ではなく遊覧船に乗って「松島」へ行くプランを採用しからです。その理由はたしかに時間は掛かるのですが、情緒もありまた陸路よりもすぐそこに「松島」を体感できて、この機会にはもってこいだと思ったからです。がしかし・・・!
遊覧船に乗り込むとおっちゃん・おばちゃんの習性として即座に「窓際」へ一直線。走り出すまでの僅かな時間にでも写真を撮ったり、ぺちゃくちゃおしゃべりをして年の割にはテンションが上がっています。ですからまだそこの水面にたくさんいるカモメやウミネコが浮かんでいても、さほど気には留めていませんでした。そして船内売店のおねえさんがカルビーの「かっぱえびせん」を売り始めても「何でこんなところで?かっぱえびせん???」だったのですがいざ、船がはしりだすとようやくその「意味」が理解できてそれ以降 皆、大はしゃぎで大満足。というのもこれは走っている遊覧船から空中にえびせんを投げると、それをウミネコがナイスキャッチするというものだったのです。きゃっきゃきゃっきゃと喜んでいました。遊覧船の前半はそれで終わり。後半は朝早く起きたこと、ほろ酔い加減なこと、ウミネコに興奮したこと等が重なり、皆さん松島に着くまでぐっすりと眠りこけていました。松島を身近で体感するというこちらの目論見は、ものの見事に外されてしまいました。船を下りると疲れ果てていたのか「瑞巌寺」もそこそこに晩御飯に向けて日本三景の一つ「松島」を後にしました。
さて、晩御飯は皆さんのご希望により「牛タン」ずくしに行って参りました。以下またまた次項で。
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2008年08月04日
仙台旅行の巻;その1
7月20日日曜日と21日月曜日〔祝日〕にかけて仙台へ行ってきました。私には実に29年ぶりの仙台でした。1泊2日の強行日程でしたが中身の濃い旅行で、朝から晩まで丸々2日間遊んできました。20日の朝は久々に5時起床。朝飯はただのパン。5時30分にMKタクシーが迎えに来て銀閣寺前の友人宅へ。そこから今度はその友人のベンツで次の友人宅の九条唐橋へ。少し走って京都南インターから名神へ入って、中国自動車道で一路伊丹へと行きました。タクシーやバス以外で伊丹へ行くのは初めてでドキドキしましたが無事到着。車を私設駐車場に留めて空港へ。ANAのカウンター前に7時15分丁度、総勢9人〔男性6人女性3人、うち夫婦2組〕が揃いました。
この旅行の発端となったのは大阪の奴に今年届いた年賀状です。その年賀状の最後のくだりに「やっと落ち着いたので、一度仙台にゴルフでもしに来ませんか?」と書いてあったのが切欠です。勿論出した本人は社交辞令のつもりで書いたのでしょうが、受け取った方は大真面目。「仙台行く人この指停まれ」と一言言っただけなのに何と9人も行くと言い出す始末。恐ろしい、こいつ等に冗談は通用しないのか!?。
で、8時05分発のANA便、9時25分にはもう仙台空港に着いていました。私以外の8人はすぐに空港アクセス電車に乗って仙台駅へ。その駅で当の年賀状を書いた本人が待っているという手筈。空港に残った私はと言いますと約30年も前に世話になった「Tさん」と久々の再会を果たしておりました。私の前職の会社、勿論Tさんも一緒なのですが、8年ほど前につぶれています。Tさんにしてみれば、つぶれた事情をよく知っている私に今の会社の人たちには言えない当時の愚痴を思いっきり話されました。2時間半ほど聞いていましたが話は尽きません。しかし、昼飯の時間が差し迫ってきたので仕方なく丁寧に再会を約束して空港でお別れしました。
そして次は仙台での最初の目的、「すしを食うぞ」です。パンフレットによりますと「塩釜」は生マグロの水揚げが日本一、そして1平方キロ当たりの「寿司屋」の軒数も日本一だそうです。そう思って食うからか、さすがに赤身マグロも大トロもうまかった。その数ある寿司屋の中から「亀喜寿司」を選んでそこに予約を入れてもらいました。「すし哲」も有名ですが、当の年賀状を出した本人に言わすと「哲」よりも「亀」だそうです。またこの「亀喜寿司」はあの「大魔神・佐々木投手」の行き着けの店として有名なのだそうですが、ネット上の口コミなどを見ているとなかなか厳しい内容が多いです。京都人の私にとっては「味」も「値段」も「量」も大満足・大満足でしたのに。
2番目の目的は日本三景の1つ「松島」、松島観光です。塩釜から遊覧船に乗って松島湾クルーズに腹一杯のおっちゃん・おばっちゃんが出かけていきました。
以下次号にて、
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2008年05月26日
上御霊神社のお祭り
毎年、5月18日は曜日に関係なく近所の「上御霊神社」のお祭りです。余り有名では有りませんが、由緒ある神社であの「応仁の乱」勃発の地という石碑もあります。地域としては小山郷・今出川口・末広とあり、北は鴨川沿いに元町小学校の所、南は荒神口そして西は東堀川、東は河原町までとなっています。今年の行列は南回りで、まず烏丸紫明から室町紫明、室町通りを南下して室町一条、西へ行って東堀川一条、そして東堀川中立売また東へ戻って室町中立売で一旦休憩。腹ごしらえをしてまた北上。室町今出川、東へ行って寺町今出川、そしてまた南下。鴨沂高校の間を通って荒神口。また北上して河原町今出川、そして狭い枡形通りを通過して其処から寺町通りを北上して帰社するというものでした。
因みにここの神社には「御神輿」が3基あります。〔小山郷〕〔今出川口〕〔末広〕です。私の聞いたところでは〔末広〕は明治維新遷都の時、天皇家から下賜されたもので、「天皇家」もこの神社の氏子だったそうです。だから珍しいことにこのお祭りの行列には「牛車」も繰り出します。そして当然その「牛車」に付いているその紋所は一六紋菊です。さらに「茶道三家」、和歌の「冷泉家」、本山相国寺、といったところも皆この神社の氏子さんです。
此処数年、行列での私の役どころはこの大切な「牛車」操縦です。大きな通りはなんでもないのですが、道中狭いところが4~5ヶ所あり「電柱」や「駐車中の車」を避けながら進行します。別に難しいことは有りませんが、牛の後を歩くので少々臭いです。しかし以外とこの役どころは楽で他の「神宝」や「獅子舞」などに比べれば疲れません。その「牛車」を引っ張る牛はと言いますと、丹波町から来る二歳の肉牛で、今年の牛は赤毛のやつと黒毛のやつ2頭でした。くりくりの大きな目をしたかわいい牛で、耳に黄色のプラスチックの札をしていて、ちゃんと立派な名前も付けられています。勿論、臭さ以外に皆が嫌がる理由は牛の「ウンチ」と「オシッコ」です。だからバイトくんがジャンケンをして負けた人がその「当番」となります。確かに犬の「ウンチ」に比べれば巨大で柔らかく処理に困りますが、臭さはさほどではなく私はあまり苦にはなりません。
今年も無事何事もなく帰社して、また来年となりました。「日常」を「非日常」とした1日に「感謝・感謝」の念でお開きとなりました。
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2008年03月03日
新生活
今年の4月1日に我が娘は大学院を無事卒業し、東京の某銀行に就職することが決まっています。聞くところによりますとその銀行には女子寮がなく、一般のアパートを借り上げて貰い、そこで新生活をスタートさせるようになるとのことです。銀行での勤務は厳しいものと私は聞かされていますが、当の本人はと言いますといたってのんびりと構えています。初めての「一人暮らし」、親から解放されて本人はウキウキなのですが、世の中そんなに「甘い」ことはない。私としてはとても心配です。東京という土地柄もそうですが、はたしてこの子に「生活」というものがまともにできるのか?大変疑問です。いまは嫁さんに5月か6月に様子を見に言って貰うことなどを想像している最中です。おお怖!!!。
それともっと重大な「問題」として、この娘が出ていくとなんと28年ぶりに我が家は「夫婦」水入らずになってしまいます。どうしたらいいのか?なにを話したらいいのか?そちらの方がものすごい悩みです。おお怖!!!
だれか「いいアイディアー」があれば教えて下さい。晩飯ぐらいは奢りますよ?!よろしく。
(文責;大塩雅義)
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2007年12月10日
ひょっとして?ヤバイ・・・「冷静に、冷静に・・・!」。
いつもの私の財布の中身といえば、至って「薄い」ものです。まま商売上「お釣り」が発生する時があるので、千円札9枚と990円の小銭をいつも持つようには心掛けています。しかし、此処数日は、なんと1万円札が50枚ほど入っています。というのも、5日後にうちの「豚児」が結婚式を挙げるのでその予備金として財布に入れているのですが?!。不親切にも「ブライダルサロン」はどこもそうなのかも知れませんが「クレジットカード」が利用できません。それと今回は「貸衣装、着付け」・「式場」・「披露宴」とそれぞれ別の業者に頼んだ為、各々の連携が悪く、何をするにも一々私が連絡を付けなければならなかったこともイライラの原因の1つでもありました。
さらに今日朝一番、いつもは行かない定期預金のある「銀行」へキャッシュカードを握りしめて、キョロキョロ辺りを警戒しながら行きました。あまりの久しぶりに案の上、暗唱番号を思い出せずに5回も間違えてしまい、カードにロックが掛かって備え付けの電話で係りの人を呼ぶというテイタラク。こっちは「自分のお金」を引き出すのだから「大きなお世話や!!」と叫びたいのですが、今日中にそこからお金を振り込まないともっと困るので・・・。もうイライラのピーク!!!がしかしそこはぐっと堪えて、いつになく従順な私がATMの前にポツンといたようです。そうこうしているとフロアーレディーのおばちゃんがニコニコと笑顔で近づいてきました。勿論、半ば放心状態の私はこのおばちゃんの言うなりです。「こことここにお届け印を捺印」「つぎ、住所と名前と電話番号」と事務的・機械的に指示を出してくれます。後で家に帰って気が付いたのですが、キャッシュカードが「クレジット機能付きの新しいもの」に変わっていました。そのおばちゃんは「キャンペーンポイント・ゲット!!」で、私はと言うと「背中に葱を背負った」人でした。
しかし、私がもっとも「へこんでいる」理由は銀行でのそんな悲しいトラブルではなく、いとも簡単に車を買ったときにも払ったことのない様な「大金」を披露宴会場へ振込だことです。ほとんど「ご祝儀」で回収出来るだろうとは言われていますが、やはり一度に大量の「自分のお金」を振り込むと「へこむ」ものです。げに恐ろしや。ああ!!どうやって、元に戻そう・・・??為すすべなし。此処数日で、痩せたような気がします。ほんと。
ではまた。
(文責;大塩雅義)
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2007年09月17日
これは、ひょっとして・・・びびるわ!!! 第6段
「余震でロウソクが倒れて火事になったら大変や!」「やっぱり懐中電灯の方が安心やな~!」と思ってはみたものの「ロウソクですらさっきのお店では争奪戦やったのに、懐中電灯となるともっと熾烈やろなあ!」と勝手に想像していた私だったのですが、次の瞬間、はたと「伊藤デンキ本店」のことが頭に浮かんできました。何故「伊藤デンキ本店」かと言いますと、理由は二つありました。
1;アパートから近い〔直線距離にして約150メートル位〕
2;知らない人はそれが「電気屋さん」だとは絶対に気が付かない〔すみません!〕
この「伊藤デンキ」さんはいわゆる普通の街の電気屋さんではなく、防衛庁(今は防衛省)出入りの業者さんで「自衛隊」の購買部(PX)での電化製品の販売と施設内でのコインランドリーの維持・管理がメインの電気屋さんでした。その本店・事務所はと言いますと確かに「サンヨーバラチェーン」の看板が上がってはいましたが、よく見ないと判らない程度のもので、また店先にはテレビや冷蔵庫、洗濯機と言った電化製品も一切列んでいませんでしたから電気屋さんという雰意気は何処にもありません。そしていつも白いカーテンが引いてあったので、よく見てもそれが何屋さんか判らない「お店」でした。だから私は「懐中電灯の在庫が1個や2個の場合であっても伊藤デンキさんに行けば必ず買うことが出来る」と確信した次第です。
そんないい加減な理由でタカを括っていた私ですが、いざお店に行ってみると な、な、なんとびっくり仰天!!!長蛇の列。ざっと200人位が夕方の薄暗い中、元気佳く列んでいました。そしてもっとびっくりしたことに私が目指していた「懐中電灯」が飛ぶように売れているではありませんか。「ひょっとして、自分の分て、残っているやろか?」と不安になったと同時に、「やっぱり皆、考えることは一緒やなー」と妙に感心してしまったのを憶えています。早速、最後尾に列んで懐中電灯を買うことにしました。なぜならアパートへ帰ってもする事がないから、と言うよりもあのぐちゃぐちゃのアパートの部屋にはすぐには帰りたくなかったと言うのが正直な気持ちでした。で「1コ、200円らしいよ」とすぐ前の人が言っているのが耳に入ってきました。「いくらでもいいから早くしてくれ!」そんなことを考えてヤキモキしている内に、15分位で私の番がやってきました。何か異常にウキウキしながら子供のように従順に品物を受け取ってから、手にしっかりと握っていた100円玉2個を店員さんに渡しました。そして事件というほどのものではありませんが、少し信じられないことがその直後に起こったのです。私のすぐ後ろの人で机の上に有った段ボール箱の懐中電灯は底を突き、無くなりました。当然、店員さんは店の奥に行って懐中電灯が一杯詰まった新しい段ボール箱を取ってきたのですが、なにを思ったのかすぐ横にいた別の店員さんが「この電池、いくら?」と店の奥にいる店員さんに聞きました。そして驚いたことに返ってきた返事は「1個、500円」!?。どう見ても同じ様な懐中電灯だったと思いますが、不幸にもその人以降懐中電灯はなぜか1個500円となって売れていきました。皆、疲れているせいか、はたまた忙しいせいか私を含めてだれも「違う、1個200円や」と正そうとはしませんでした。そんな想いを引きずってアパートへ帰り、怠い何もすることがない短い夜を過ごしたように思います。
その次の日がまたまた大変でした。そのことは次回に貢うご期待。!!!
(文責;大塩雅義)
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2007年06月25日
明るい話題その2

前回報告しました息子の結婚の件ですが、式は12月8日と決まりました。平安神宮で執り行うそうです。次回の掲載で「結婚式の生中継を請うご期待!!」と書きましたが、その前に大事なことが1つ残っておりました。そう、相手のご両親へ「挨拶」に行くという事です。元来私は小心者でいい加減な性格の男ですから自分にとって面倒なこと、つまり世間一般にいう大事なことは極力避けて生きてきました。従って今回のように堅い「挨拶」をするという経験が私にはほとんどありません。思い起こせば遠い昔、嫁さんを貰いに行ったときもそうでした。いつも頼りなさそうにへらへら笑っていて、肝心なことは殆ど言わない。そのくせやることはしっかりやっていて、気が付けば娘を取られていた。向こうの「お義父さん」「お義母さん」は私のことをそういう風に思っていたと思います。事後承諾、これが私の得意技でした。今回巡り巡ってその「付け」が一挙にやってきたのも、致し方ないことかも知れません。
自分の息子が結婚をする。当然のことながらその相手のご両親のところへ自分が親として「挨拶」をしに行く。とここまでは私でも普通に考えられるのですが、その「挨拶」自体をどのようにしたらよいのかが浮かんで来ない。映画やテレビドラマではよく見るシーンなのですが、いざ自分のこととなるとそのシュチエーションに当て填められない、考えられないのです。なおのこと、向こうのご両親がお二人とも学校の先生だと聞いた日には、もう私の頭の中はパニック・パニック。実際問題、昔から私は「学校の先生」と「芸術家」は苦手なんです。
7月1日の日曜日がその日です。11時に名古屋駅の「岐阜」行きのプラットホームで息子たちと待ち合わせです。電車で相手のご実家へ行き、挨拶をしてその後「昼食会」という段取りです。あと2週間、今の私の心の中は終わった後のことばかり考えています。やはりだいぶ重荷になって来ています。人の親なら誰もが経験する事とは言え、いろいろ考えると悩んでしまいます。バラ色の人生、父親としての絶頂。しかしこの幸福が故の悩み。む~!!こういう時、自分のことしか考えられない内の嫁さんが羨ましいかぎりです。さあ、行ってくるぞお!!
(文責;大塩雅義)
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2007年04月02日
明るい話題その1

今、53歳の私には今年5月に27歳になる「息子」と7月に24歳になる「娘」がおります。両親同様、二人ともごくごく普通の子です。勿論、小さいときは「特別な子」になってほしいとの一念で、色々な習い事をやらせたり、学習塾に通わせて勉強癖を付けさせようとしたこともありました。しかし、父親の遺伝子を強く引き継ぐこの二人は案の剰、長続きせずいつの間にかそういうことは止めてしまっていました。ま、親の私にしてみれば結果オーライ、可もなく不可もなく「普通がなにより!」と言う子に育ってくれました。ありがとう、いい子です。
さて、この長男坊の方が昨年末帰省したときに、突然「結婚宣言」をしました。そしてじっくりと彼女のことも話さず「元旦から仕事がある」と言ってそそくさと帰ってしまいました。そんな殺生な!俺は何も聞いてないぞ!親のこの俺をないがしろにするのか!後で「お金だけ頂戴」と言われてもいややぞ!と心の中で叫んではみたものの、満更悪い気はしないのはやはり親バカのせいでしょうか?
場所はとある京風中華料理店。1時間遅れでその昼食会は始まりました。その店は我が家から歩いて20分ほどの距離ですが、その道中嫁も私も緊張しているせいか一言もしゃべらず、足早にもくもくと歩き、そして彼らよりも先に店に到着しました。ドキドキしながら個室で待っていると長男坊と彼女はやって来ました。一瞬、部屋の襖が開いて私の目に飛び込んできた彼女は、想像していた女性とは少し違っていましたが、「明るい」雰意気とそして頭の回転が速そうな印象を持った子でした。「いい子や」。次の瞬間、安心したせいか私は腹ぺこに気付きました。そして私が目の前の料理をいつものスピードで平らげはじめたものですから、嫁がちょっと気遣って「お父さんはいつも食べるのが早いんだから」と体裁を取り繕っていました。そんな事はお構いなしの私は「よかった。ドキドキせずに普通にしゃべれる。ずーと前から知っているような感じがする子やなー」と。飲んで、食べて、しゃべって一人ご満悦でした。家に帰ってからもテンションは高く、ここ2ヶ月あまりのじりじりと過ごした日々が嘘のように心の中からふっ飛んでいました。そして気の早い私は「ひょっとしたら来年の秋頃、俺はおじいちゃんになっているかも?」とニンマリする有様で、しばし近い将来の「金の掛かる出来事」をも忘れてひとり喜んでおりました。
人になんと言われようが私は「幸せ者」です。悔しかったら掛かってきなさい。この幸せ者の続きは次回結婚式の「生中継」で。では皆様方、更ご期待あれ!!!
(文責;大塩雅義)
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2007年01月09日
ジーコ監督。「おまえもか~!!!」

近頃私は歳を取ったせいか感情の起伏が少なくなってきたような気がします。しかし先日の「日経新聞」に掲載されたサッカー日本代表の前監督、ジーコさんのインタビュー記事には少々がっかりしました。何故かと言いますと文中何処を探しても彼の監督としての「責任」の所在箇所が見あたらなかったからです。その内容はと言いますと終わってから5ヶ月も経つのに、終始監督としての自己の正当性の主張ばかりで、他人の悪口言うのにそんなに時間が掛かるかと失望させられてしまいました。
確かに彼にしてみれば監督を引き受けた当初、少し頑張ればまた2002年の時のように決勝トーナメントへの進出ができるのではないか?また自分のサッカー知識・技術からすれば本大会で上位進出も可能ではないかと思っていたのかも知れません。しかし残念ながら意に反してベスト16を逃すと言う結果が出た途端、その責任が自分に集中すると、恰も選手や協会・くじ運の悪さ等のせいでそうなったかのように言い放ち、本気で敗因分析をしていないように私には受け取れました。これはプロでもアマチュアでも絶対に口にしてはいけないことだと思います。なにかしらのスポーツをやったことのある人ならば、「勝負事は勝つも負けるも時の運」というのは理解できると思います。だから彼に負けたことの責任を取れとは言いません。悔しいのは良くわかりますが、今更負けた理由を聞かされても仕方がないし、また聞きたくもないと言うのが本当の所です。ましてやその責任を他人に擦り付けるとはいかがなものか?そんな事をすると凡人以下、最低の人間になりますよと言いたいです。普通の人は自軍の敗因をのうのうと語りますが、特別な人は必ず相手の勝因を的確に把握しているといいます。だからジーコさんには「なぜ日本チームは勝てなかったのか?」という分析や理由を文中に示してほしかったと思います。「負けた理由を示す」ではなく、「勝つためにどうしたらよかったか?」。そういった話の方が聞く耳にも心地よいし、また言っている本人も気分がよかったのではないでしょうか?
少し前の話ですが、耐震偽装マンションの事件や村上ファンド・ライブドアの事件の報道を聞いていますと、その当事者は決まって他人の責任を口にします。全く自分に責任がなかった人もいるでしょうし、確かに運が悪かったの一言で解決できる問題では無いと思います。しかしそのように悲しい結果になる前に自分自身で何かやるべき事があったのではないでしょうかと思うのです。これが今の日本の風潮だと言ってしまえば簡単な事なのかも知れませんが、何か寂しい気持ちで悲しくなってしまいます。
今回のジーコインタビューにしても、彼が日本人は好結果においては「謙虚さ」を、そして不幸の結果に際しては「自己責任」を取ることを好む、ということを知っていたなら少しは違った内容になっていたかも知れません。話は変わりますが、「二十手物語」の鶴次郎さんの話によると、元来人間は自分一人の力で「生きている」のではなく、周りの人間や自然に「生かされている」ものなのだそうです。今更偉そうなことは言いませんが、ジーコさんより1歳若い私は、残り少ない人生を「自己責任」の取り方と「感謝」の気持ちで「楽しく」また「ゆっくり」と生きていきたいと思っている今日この頃です。
(文責;大塩雅義)
カテゴリー [ 大塩 雅義 ]
2006年10月16日
これは、ひょっとして・・・びびるわ!!! 第5段

5階建てアパートの最上階にある1DKの「部屋」、間取りはと言いますと玄関ドアーを開けるとすぐ3帖ほどの広さの細長い「キッチン」があり、そのすぐ左に「トイレ」・「バスユニット」で、その「キッチン」の奥に6帖の「部屋」と「押入」が付いているというものでした。アパートに戻ってドアーを開けてまず気がついたのは、奥の「部屋」の窓のガラス戸が真中に寄っていたことです。朝出るときは確かに閉めていったはずなのに、開けっ放しになっている。不用心だ?。むーん不思議・・・。でも次の瞬間、端と気がつきました。地震で建物全体が揺れると特に上の階はこの様に窓ガラスが真中に寄るんだと。妙に関心している自分に気付きましたが、まだまだ頭が混乱していたので思わず「照明」のスイッチを押していました。「あ、そや停電やったんや」。薄暗いなかに次に見たものは、というより嫌でも気がついたという方が正しいのですが、「キッチン」の上の戸棚の扉が全部開いていて、その中の「収容物」がもののみごとに落下していました。お茶碗・皿・お箸・醤油・チキンラーメン・歯ブラシ等々。粉々・びちゃびちゃ・ぐちゃぐちゃ、足の踏み場もない状態 何から手を着けて良いのやら、「むかむか」したのを覚えています。仕方がないから靴のまま「キッチン」を越えて「部屋」に入りました。幸いにもそこは独り者ゆえに「家財」道具が少なかったせいで、「テレビ」が「ベッド」の上にうつ伏せに転がっていただけで割と地震前のままでした。
それとものすごくラッキーだったのはそのアパートは独自の「井戸式」の給水設備であったために水道だけはすぐに使えたことです。
靴を脱いで「ベッド」に座ると少し落ち着いてきたので、先ほど買ってきた「蝋燭」を取り出し100円ライターで火をつけました。がしかし「暗い」・・。3本に火をつけましたがやはり「暗い」。当時私は「音」と「光」は全部家庭用電源、つまり100Vのコンセントから取っていました。停電になるとさアー大変、「電池」式の物は何もありません。やっと一息ついたのに「電気屋」さんまで行かなくちゃと気付きました。窓から外を覗くとなんだか「ざわざわ」しています。でも近所の「伊藤デンキ」まで行かなくちゃ。また財布だけもって出かけました。その「伊藤デンキ」がまた大変でした。
以下また次号。・・・!
(文責;大塩雅義)
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2006年07月24日
[これって、ひょっとして!?]ビビルわ。第4段

28年前、小生は仙台市役所の東支所(今は何区になっているのか判りませんが)の近所の鉄筋コンクリート5階建てのアパートに暮らしておりました。その200メートルほど西の所に国鉄「東北本線」の下をくぐり抜けるコンクリートのガードがあり、その横に日用雑貨と食料品を扱うお店がありました。当時はまだ「コンビニ」がなかったのでそのようなお店が存在したのですが、暮らしていたアパートの100メートルほど東には「生協のスーパー」もあり生活は非常に便利でした。しかし何故かその時はその小さなお店に向かいました。と言うのも地震発生からだいぶ時間が経っていたので大きなお店よりは小さなお店の方が「商品」が残っている可能性が高いと思ったからです。その小さなお店に着くとまず玄関の自動ドアーのガラスが粉々に割れていのに「ぎょっ」とさせられ、次に薄暗い店内(停電ですから)を無言で動き回る人影の異様さにも同じ思いをさせられました。ともあれ、「そのまま食べられる物」と「光」を探して一大決心でその店に突入しました。パン・缶詰・お菓子・ジュース・牛乳等と思ってあちこち探しましたが、結局生キャベツ1玉とコンビーフの缶詰2箇、それとビスコ1箱しか見つかりませんでした。そして小生の様に昭和20年代生まれの者にとって停電についての「思考回路」の行き着く先は、ずばりローソクなのです。それも「仏壇用」の短い・細い物ではなく20センチ位の割と太いローソクを思い浮かべるものなのです。日頃はまず売れないこの手のローソク、やはり予想通りお店の奥の棚の1番下のそのまた奥にありました。ここで1つ面白かった事は食べ物とそのローソクを持ってこの店を出てきた途端、小生は「アイドル」になってしまいました。『お兄ちゃん、そのローソク何処にあったん!!』とそのお店の周りにいたおばちゃんたちに取り囲まれ、腕を鷲掴みにされ、またそのお店に連れ戻されてしまいました。そんなこんながありまして、レジのカウンターにおおよその「金額」を置いてアパートに帰りました。アパートに帰ってからもまた大変でした。生まれて初めて、「土足」で自分の部屋の中に入りました。もう「クタクタ」でした。しかし・・・
以下次号へ!!
(文責;大塩雅義)
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